インドの首都ニューデリーに特派員として赴任して3年目の9月、私(38)は初めての子供を授かった。世界最多の14億人が暮らすインドの人々は、出産にどう向き合っているのか。現地での体験から見えてきた日本との違いを通じ、幸せな妊娠生活や出産、子育てのあり方を考える。
医師ら「患者の身内が怖い」
なぜ、こんなに警備員がいるのだろう――。
妊婦健診でニューデリーの私立病院に来るたびに気になっていた。6階建てビルの玄関はもちろん、病室や分娩(ぶんべん)室などがある各階のエレベーター前にも、制服姿の警備員がいる。市内にある高級ショッピングモール並みの多さだ。
答えの手がかりは、臨月に取材したあるデモ現場で見つかった。東部コルカタの公立病院で8月、女性研修医(31)が性的暴行を受けて殺害される痛ましい事件が起きた。ニューデリーでは医師ら数百人が事件に抗議して座り込んだ。
事件では病院に出入りしていたボランティアの男が逮捕された。しかし、デモに参加した医師らに勤務中に身の危険を感じることはあるかと聞くと、なぜか「患者の身内が怖い」と返された。
治療がうまくいかないと、付きそう親族に詰め寄られることがあるという。亡くなった患者の親族が医師を襲撃する事件も各地で起きている。
出産はとりわけ親族が勢ぞろいする一大イベントだ。「続々と病院に駆け付け、子供が生まれるとお祭り騒ぎです。収拾がつかないので、面会時間を制限しています」。私が通院していた病院の職員は苦笑いしながら教えてくれた。母子に不測の事態が起きたらと考えると、病院にとって警備は手厚いに越したことはないだろう。
インドで出産した記者が現地での体験を通じて、「幸せな妊娠と出産」について考えます。ラインアップは以下の通り。
①出産は一族総出のイベント
②産むか、産まないかの選択
③インドの人が恐れる「邪視」
④まずは産後の母親を元気に
⑤母親になると生まれ変わる?
祝福はありがたい。でも…
私は単身赴任中のため、日本で暮らす夫が休暇を取って来てくれた。出産予定日前に破水して2人で病院へ急ぎ、元気な女の子が生まれた。
「ハッピー・ベビー・スイーツは?」。夫と私は何度か病院職員に催促された。無事に生まれると、家族が気前よく周囲にお菓子を振る舞うという。夫は急いで菓子を調達し、医師や看護師に配った。病室には、赤ちゃんと家族を記念撮影する業者も宣伝にやってきた。カメラマンが病室に滞在し、面会客を逐一撮影するプランもあった。
大勢の人に祝ってもらえるのはありがたい。でも、出産直後で疲労困憊(こんぱい)している中で、応対するのは大変ではないだろうか。
インド人との意識の違い
妊娠中、さまざまな相談に乗ってもらった毎日新聞ニューデリー支局助手のカリル・ハシミさん(38)に疑問をぶつけると、不思議そうな顔をされた。「だって、苦しい時やうれしい時に、そばにいてこその家族でしょう」
9年前に妻タラナさん(34)が長女の出産で産気づいたときには、親族二十数人が病院に駆け付けたという。同居していたカリルさんの両親や弟だけでなく、離れて住む妹夫婦らもやってきて、病院のロビーや駐車場に止めた車の中で吉報を待った。産後も、友人や近所の人ら100人以上が次々に病院に訪ねてきて喜び合った。
結婚後、単身赴任期間を除いて夫と2人暮らしだった私にとって、生まれてきた娘は夫婦二人の子だという感覚が強かった。陣痛で苦しむ姿を遠縁の親族に見られるのは恥ずかしいし、出産直後に人と会うのは煩わしいと思っていた。
一方、インドでは、夫の両親やきょうだいと同居するのが今も珍しくなく、生まれてきた子供は「一族の子」だという意識が強い。血縁だけでなく、地縁や友人同士の結びつきも強い。
「良くも悪くも濃密な人間関係の中で生きています。みんなのために自分を後回しにすることもあります」とタラナさんは説明する。
◇
私たちは出産の翌々日に退院して自宅アパートに戻った。すると、下の階に住む大家さんの妻が出迎え、バラの花びらのフラワーシャワーで祝福してくれた。私と夫の首にマリーゴールドの花輪をかけて「女神様、万歳」と繰り返し唱え、無事に子が生まれたことを神に感謝した。
慣れない授乳による寝不足で頭はぼんやりとしていたが、娘もコミュニティーの新メンバーとして受け入れてもらえたようで背筋が伸びた。
とにもかくにも、私はインドで母親になった。よく眠っている娘を腕に抱きながら、改めてそう実感した。【ニューデリー川上珠実】
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